グランプリを受賞したひまわりの絵にある想い

ウクライナの人々が生命の危険を感じる生活を強いられるようになってから、はやくも2年が過ぎました。この間に亡くなったウクライナ兵の数は3万1000人。命を奪われた民間人は、少なくとも1万582人に上ります。

 このほど、ADRA Japanは、1万本のひまわりを日本に咲かそう!というキャンペーンを張りました。485名の方のご賛同を得、同プランに寄付して下さった日本全国の方々に、間もなくひまわりの種を発送します。

その、ひまわりの種をいれてお送りするパッケージに印刷する絵のコンテストを、オンライン投票によって行い、こちらの絵がグランプリに選ばれました。

ひまわりの絵でグランプリに輝いたダイアナちゃんは、現在7歳。5月に8歳となります。今回、本人に代わり彼女のお母さん、ラリサさんからの手紙が届きました。ラリサさんは2022年2月24日について書いていました。全文ではありませんが、ここにご紹介します。

「あの朝、私は仕事に行くため身支度を整えていました。外に出ると、大きな爆音を耳にしました。遠くの方から、これまでに聞いたことの無い地鳴りのような大きな音がしたのです。

恐怖を感じていると、誰かが私に電話をかけてきました。私の村から80キロ離れたハリコフに住む兄のニキータでした。ニキータ? 電話するには早い時間…不思議だな、と思いながら、電話を取ると、『ラリサ、爆撃だ!戦争だよ!』と言われました。

絶望、恐怖、パニック、そして子どもたちがいる場所や母、兄のところに行きたいという抑えられない欲求…。

どうすればいいの?どのように行動すればよいの?何を期待すべきなの?と、何百もの疑問が頭の中で渦巻きましたが、答えは見出せませんでした。私は友人全員、職場、学校、幼稚園に電話して、少なくとも次に何をすべきかを理解しようとしました。

 すると、家族全員で家にいるように指示されました。

ウクライナとスロバキアの国境にて

ウクライナ国民は地下室に毛布を敷き、食料、ろうそく、マッチ、水を持ち込むようになりました。地下室はロケット弾や爆弾の直撃からは守ってくれないけれど、銃の攻撃からは防げると信じていました。が、私たちに生き残る望みはほとんどありませんでした。

 戦争初日、近所の店は空になり、食べ物はすべてが売り切れでした。パン、シリアル、その他の食料品は14日間、村に持ち込まれませんでした。燃料もありませんでした。 ATMでお金を引き出すこともできませんでした。私たちは食べ物も燃料もお金もなく、こんな状態がいつまで続くのか、誰にも予想がつきませんでした。

飢えへの脅威があり、人々はパニックになり始めました。恐怖の第一波が去り、ニュースが戦闘の様子と場所を伝えると、現金でしか買えなかった食料が3~4倍の値段で徐々に村に届き始めました。

ミサイルとロケット弾が、絶え間ない轟音とともに落ちてきて私たちの町を破壊しました。ミサイルが一日に何度も私たちの上を飛び交い、野原に落ちました。夜になると、さまざまな方向で空が輝き、家が揺れるほどの強い雷鳴が鳴り響きました。

すべての窓をテープで塞ぎました。出口には衣服と靴を常に用意しました。私たちは交替で警備をしました。村には領土防衛所が設置され、夜は略奪を防ぐための迂回警備が行われました。多くの人が経済的破綻の危機に瀕しました。

やがて、年金受給者や大家族に人道支援が提供されるようになりました。破壊された都市、主にハリコフから避難民が大挙して到着し、私たちの村に空き家は一軒もなくなりました。

私が働いている図書館には、地元の人々が家から食料や日用品を届けてくれました。砲撃から何も持たずに逃げた人もいましたね。

ひまわりの絵を描くダイアナちゃん(左)

生活は一変し、誰もが計画も夢もなく、その日その日を生きていました。嫌な予感がして死を待つばかりの暮らしでした。それはおそらく、死そのものよりも酷いことです。自分の子どもたちが感じる恐怖が、私をも狂わせていました。

占領者たちは少女や女性を強姦し、性的虐待し、殺害しています。私には娘が3人いるので、いろいろ悩みました。

この間ずっと、ハリコフに住んでいたボーイフレンドは地下鉄の中に隠れていました。私たちは皆、この状況が長く続かないことを望んでいました。

私たちは全財産――バッグ数個と少しのお金――を手に、電車、車、バスを乗り継いで、スロバキアの避難所に辿り着きました。私たちに同行してくれる方々の思いやりには、言葉で表現できないほどの喜びを感じました。

移動の列車内からスロバキア北西の都市、トレンチーンのキャンプまで、お世話になったすべての人にお礼を述べます。実際のところ、なかなか適切な言葉が見付かりませんが…。

数日後、私たちはなんとか新しい生活を始めることができました。こんなことが私たちに起こるとは思ってもいませんでした。

そして、私たちがここで見つけた最も重要なことは友達です。ADRAスタッフで、トレンチーンにて精力的に活動するチンチャル家の皆さん、本当にありがとうございました。あらゆる面で私たちをサポートしており、いつも私たちに寄り添ってくれ、とても感謝しています。

最後の日まで、私たちは戦争が起こるとは信じていませんでした。文明国にはふさわしくないからです。

しかし、戦いの火ぶたは切られました…そして戦争は続きます。

力強く生きるダイアナちゃん

ウクライナで、私たちは頻繁にひまわり畑に写真を撮りに行きました。多くの蜂が飛び、ひまわりにはいつもテントウムシが着いていました。娘のダイアナは、記憶に残るその光景を思い出しながら描いています。

ダイアナは重要なものが何であるのか、そしてウクライナのひまわりの温かさと、平和への思いを画用紙に表現したのです。自然を愛し、楽しみ、家族と多くの時間を過ごしながら、私たちは未来を諦めずに生きていきます」

ウクライナの方たちが一日も早く平穏な生活を取り戻すことを、ADRAは願ってやみません。私たちは、こういった方々のために活動しているということを、いつも胸に刻んでいます。引き続き皆様の温かいご支援を、よろしくお願いいたします。

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