こんにちは、いつも温かいご支援をありがとうございます。
アフガニスタン&ミャンマー担当の守屋です。
今日は個人的なお話をしたいと思います。
私は、14歳の時に人道支援に携わることを決意しました。
当時は米国同時多発テロ発生直後で、テレビからは連日、アフガニスタンの様子が流れていました。その中で見た女の子はこう言っていました。
「夢はお医者さんになって、苦しんでいる人を助けること。その為に勉強したいけれど、うちは貧しいから働かないといけない。それに私は女だから、学校に行くのはまず男兄弟から。私もいつか、学校に行けたらいいな。」
女の子の言葉に涙が止まりませんでした。
周りを見れば、勉強したくないと嘆く同級生。将来なりたいものなんてない。
一方アフガニスタンには、自分には全く責任のない社会的な状況のせいで、夢を追うことができない子どもたちがいる……。
この理不尽を何とかしたい。誰しもが、自分の人生を選べる世界にしたい。心からそう思いました。
しかし人道支援団体で働き始めると、何故自分が支援を続けたいのかが、よくわからなくなってしまいました。
「理不尽を是正したい。」
「支援を続けたからってなくなるもんじゃないよね?」
「人々の笑顔が見たい」
「笑顔を見たいだけなら人道支援じゃなくてもできるよね?」
「困っている人に手を差し伸べたい」
「それなら日本にもいる。何で海外?」
表面的な理由を挙げれば、それを打ち消す疑問が即座に出てくるのです。
だから私は、「英語で仕事をする事が好きで、やりがいがあるから」としか説明できませんでした。
どうして人道支援にやりがいを感じるのか、その根底にある理由を、明確な言葉にすることができなかったのです。
長い間わからなかったその理由は、去年ようやく明らかになりました。
特に大きな障害はないものの、自分の人生が何となく、上手くまわっていないことに気づいた私は、友人が提供するカウンセリングを受けることにしました。
そこでは、自分の感情を徹底的に言語化することが求められました。
人が人生において大半の時間を費やす仕事には、その人のライフワーク、価値観、キーポイントが隠されています。
複数回のセッションの末たどり着いた私のキーワードは、『希望』でした。
実にありきたりで聞きなれた言葉です。
でもそれは、辛いことが多かった子ども時代に、自らが糧としてきたものだと気づきました。
紛争や自然災害など、自分の手では解決しようのない困難な状況にいる人々に支援を届けると、こんな声が聞こえてきます。
「これでしばらくは食べていける。食費に充てていたお金を別の必要品にまわせる」
「これで農業を再開できる。自分の力で稼いでいける」
「これでキレイな水が飲める。病気にかからず健康に暮らせる」
支援の結果、より良い明日を歩めると感じる。それはつまり、「希望」なのです。
人々が希望を持って生きる姿を目にすることで、自らもまた希望をもらう。
その相互関係が、私が自分の仕事にやりがいを感じ、また混沌を極める世界の中でも支援を続ける理由だとわかりました。
私は、支援対象者を悲観しません。
彼らの環境は、物質的にも経済的にも困難ですが、そこで生き続けている彼らは、実に逞しく、美しい。
きれいごとに聞こえるかもしれません。
けれど、希望を持つことが時に難しい場所で、今日も懸命に生きている彼らを見れば、こちらが希望を与えられていることに気づくのです。