彼らの生き方から学ぶもの──3.11と福島県沖地震の記憶

今から約3年前に、令和4年福島県沖地震が発生した。マグニチュード7.4の大地震で、宮城や福島では震度6強の揺れを観測した地域もある。多くの家屋が倒壊、亡くなった方や傷病者、インフラにも被害が出ており、東北に大きな爪痕を残した。1年前の令和3年にも同規模の地震が発生しており、皮肉な事にそれぞれの地震が2月13日・3月16日と2011年の発災日に近かった事も、住民にとって“311”を彷彿とさせるものであった。

ADRAは、東日本大震災で活動をしていた宮城県山元町にすぐ連絡した。幸いな事に、当時関わった方々は無事であった。災害ボランティアセンターが立ち上がり、運営支援が必要か確認をしたが

「自分達だけでやってみる。」

との事だったので、被災された方々一人一人に寄り添い、想いを吐露したり、地域の住民同士で集まれる場や隠れたニーズを掘り起こすために足湯を実施することが決まった。4月を皮切りに、夏が終わるまで計12回の足湯を実施する事になる。

既に桜は咲き終わっていたが、まだ少し春の香りと冷たさが漂う風が吹いていた。東京よりも寒いことは間違いないだろう。教会の牧師から借りた車を原宿の事務所に停車して、ひたすらに足湯の道具を積み込む。トランクまで一杯になった車は、いつもより少し渋滞している道を進んでいく。そこから高速を使い約5時間。山元町に到着した。

高速を降りると、痛々しく延びる道路の亀裂や落下して一部が欠けてしまった瓦が目につく。恐らく今回の地震によるものだ。しかし、それ以上に海岸沿いが更地になり、かつて家々が立ち並ぶ地域だと知った時には背筋が凍る思いがした。テレビなどとは違い初めてこの地に赴き、実際に東日本大震災の惨状を目の当たりにして、ただひたすらに恐怖心を煽られた。

足湯をするために会場を訪れた住民は想像と異なり、開口一番に畑や体調の話をする。

「さっきまで農業をしてきた。なんでも育ててるよ~。自給自足ってね。」

「足が悪くなってあまり外に出なくなったよ。出た方が良いのはわかってるんだ。」

「みんなデイサービスに行ってるから、全然会えてなかったの。久しぶりでさー、こうやって会えてよかった~。」

彼らとの会話から、普段の生活を垣間見る事ができる。足や腰など、体の不調を訴えており、どうやら日常生活に支障がでているようだ。丁度コロナ禍だったと言う事もあり、地域の集まりが無く、一人で寂しい思いをしていた方も多い。そんな中、何かの拍子に少し遠い目をしながらぽつりぽつりと地震についてつぶやく。

 「昔は人とのつながりに飢えていたから、何か声をかければすぐ集まったけど、今では声をかけても人が集まらないんだ。みんな安心して家から出てこないもの。部屋に引きこもる人が多いね~。この前の大きな地震でも全然人が外に出てこなかったよー。」

「昔は200何十っていう人が住んでいたのに、今はかなり減ってしまって…寂しいね…でも11年経って段々慣れてきたけど。」

 「たくさん畑やってたけど、津波で全部ダメになっちゃって、塩かぶっちゃってるから容易じゃないでしょ。だけど、もうあの辺りは住んじゃいけなくなった地区なので、もう地名が消滅しちゃって、ねぐねっちゃったわけよ。悲しいねー。ふるさと無ぐねったみたいでね。」

この時に実施した足湯では、福島県沖地震の被害を語る人は少なかった。しかし、当時11年経過した東日本大震災の経験は、皆鮮明に覚えており、私達に記憶が引き継がれた。テレビや新聞で見る事ができる”311”の被害は極一部だ。私達が関わった方々と会話を重ねる事でそのように感じた。悲しい、辛い、寂しい、困っていると語っていても、皆同じ心境と言う訳ではなく、一人一人に違った感情が存在する。人間の数だけ余韻嫋嫋とその想いは続いていく。そして、11年という時が経過したからこその問題が生じている。

災害が発生した地域では、どこでも大なり小なりの悩みが生まれる。その悩みに対して、いつもベストな選択をすることは難しいだろう。しかし、人々はその選択を抱えて、今日も生きている。私たちが、彼らの生き方から学ぶ事はとても大きい。これからとこれまでに発生した災害で活かしていくため、まだ見ぬ人々の雲外蒼天な未来を夢見て。

(執筆:三牧 晋之介)

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