
ADRAのスタッフ全員と一緒に原宿でランチを食べ、帰ってきてから1時間くらい経った時だった。長男が生まれ、慶弔休暇から明けたばかりの私は、それまでに溜まってしまった仕事を片付けている最中だった。
2時46分にけたたましく、事務所の中でサイレンが鳴る。
「パオパオパオパオ!! 緊急地震速報です。東北で地震が発生しました。約40秒で東京都に届きます」
国内事業課スタッフのパソコンから発された言葉に動きを止める。緊張していたからではない。どこが震源地だったのか単に気になったからだ。
これまで同僚のパソコンから地震速報が流れてきたことはあるが、東京に着くころにはいつも揺れているかどうかもわからない振動になる。
「3,2,1,0、はい、今、揺れてま~す」
「え? マジで?(笑)」
そんなお互いが笑ってしまうやりとりをよくしていたのだ。
どれどれ、今回はどこが震源地なのかな?
興味本位でそのパソコンをのぞき込むと同時に、ふと彼の緊張した横顔に気付く。
自動音声がカウントダウンを開始する。
「10,9,8,7。。。。」
事務所が地下1階にあるのに、すでに震度1くらいの揺れが始まった。
「ちょっと、それ壊れてるんじゃないの~?」
女性スタッフが半分笑いながら声をかける。
「5,4,3。。。」
揺れは収まるどころかますます大きくなり、それぞれが慌てて机の下に潜り込む。
「え? 地下でこれってやばくない?」
「(避難用に)ドアを開けておいて!」
「2,1」
0を聞いたか聞いていないか、そんなことはどうでもいいくらいに、地下の事務所が大きく揺れた。それも長く。
緊張でこわばる体を机の下に入れたまま、早くこの揺れが収まることだけを祈った。
体感では震度3~4はあっただろうか。
60秒ほど揺れたような気がするが、定かではない。
血の気の引いた顔を机の下からのぞかせ、近くのスタッフと目を合わせると思わず失笑してしまう。
揺れが収まった。
安全のため一旦、全スタッフが建物外に避難すると、道は建物から脱出した人であふれかえっていた。通りの向こう側にある7階建てほどのビルを見上げると、シャンデリアが振り子となって揺れている。
東京でこれだけ揺れていたら、東北ではただごとではない。
建物の安全が確認されると、事務所に戻り急いでテレビをつける。東北地方で震度6~7の揺れだ。と同時に、津波警報も発令されている。東北で予想される波の高さは10m以上。
10m以上!?
バスケットゴールの3倍以上の高さをもつ津波ということだ。
想像するだけで無力感に襲われる。
大丈夫なのか?
にわかに信じられない映画級の数値を半信半疑ながら見ていると、ヘリからの映像に切り替わる。横に隊列を組んだ兵士が攻めてくるかのように、波が地上に向かって前進する。いつのまにか波は黒くなって川の流れを無視してさかのぼり、押し戻されることを知らずに車、橋、家、建物を飲みつくす。きれいな田園風景は津波が次々と黒いペンキで塗りつぶした。
無力
テレビから流れる映像を前になすすべもなく立ち尽くしていた。
その後の記憶はあまり鮮明ではない。誰が何を言って行動しはじめたのかもわからない。ただ、気がついた時にはADRAスタッフは全員動いていた。
事務所には、外出や海外出張で事務局長も事業部長も副事業部長もいなかった。しかし、それぞれが今できるベストを尽くし、お互いに話し合いながら持ち場についた。
国内の他の支援団体と連絡をとる者、東北へ向かう準備をする者、ADRAの母体となっているキリスト教団に連絡する者、ADRAの海外支部に連絡する者、原宿で帰宅困難者になった方への休憩所開設準備をする者、外に出て看板を持ち帰宅困難者へ声をかける者、空腹で避難してきた方のために米を炊きおにぎりをにぎる者、交通機関の復旧情報をホワイトボードに書く者。交代で休憩をとりつつ、明朝まで対応を続けていった。
あの日から14年がたつ。
正直、日本や世界で起こる自然災害や紛争のニュースを聞くと、今でも圧倒されるような気持ちになる。自分一人の力ではどうにもできないことも多い。
それでも、何もできないわけではない。どんなに小さくても、自分にできることがあるはずだ。だからこそ、ADRAのモットーを思い出す。
ひとつの命から世界を変える
個人でもADRAでもすべての人を助けることは無理かもしれない。でも、目の前にいるひとり、手に届く範囲の人なら寄り添った支援をすることができる。今年の3.11もこの言葉に立ち返り、できることを続けていきたい。
(執筆:石橋 和博)