2024年11月16日、私は約3ヶ月ぶりに能登半島穴水町を訪れた。関東から来た私にとって、秋の日本海側は寒く、薄暗い。おまけに、もうすぐ初雪という時期であった。今回の穴水訪問は、ADRAが毎月行っている「移動カフェ」事業によるもので、集会所に地域の方々を集め、無料でお茶を飲む場を提供する。その中で私の役割は、机と椅子並べ、お菓子を置き、コーヒーやお茶などを供給することであった。
午後1時、穴水町にある下唐川地区集会所の鍵を開け、カフェの準備にとり掛かる。集落のまとめ役の方と落ち合い、住民たちに「今日ADRAさんカフェあるよー」と直接電話で声をかける。
しばらくすると、ぽつぽつと住民の方々が集まり、コテコテの能登弁で情報交換が始まった。私は裏方として注文を受け、連れて来られた5才と2才くらいのお子さんが走り回るのにぶつからないよう注意しながら、飲み物やお菓子を配る。
2時間ほど経つと「そろそろかね」と言って、1人2人と帰っていく。皆さん足が悪い、腰が痛いと言いながら、ゆっくり三三五五となった。
あっという間に終わってしまったと思いながら、皿やコップを片付けていると、集会所のまとめ役の方に「本当にありがとう!下唐川はここからだから、これで皆さんがいなくなった後も、こういう風にやっていけば良いんだな」と言われた。
私はハッとした。ああ、こうやってコミュニティは再生していくんだなと理解した。
いま能登から多くの人が去っている。もともと人口が減少し、空き家も増えている地域だ。そんな中、大地震が襲い、家と職を失う。これではなかなか生活自体が難しい。被災しても受験は待ってもらえず、勉強を続ける必要があり、仕事をしないと生活費は賄えない。断続的な余震による不安も募り、多くが子どもや兄弟を頼り、金沢や東京に移り住んだ。
集落に残る決断をした方々も、元の生活には戻れない。顔見知りだったご近所さんは一軒、また一軒と土地を去り、家があった場所がどんどん更地になっていく。人口は半分以下まで減ってしまった。そのため、近所とはいえ震災前は友達ではなかった人や、挨拶程度の関係だった人が多いのだという。
そして彼らはいずれ、私たち支援団体やボランティアが来なくなることも知っている。実際、穴水のボランティアセンターは縮小し、平時の営業に戻りつつある。年初は炊出し等の支援に入っていた団体も、インフラの復旧に合わせ少しずつ減っている。水と電気と道路はつながっても、去った人々は帰ってこない、元の仕事がある訳でもない、もうかつてのコミュニティには戻らないのだ。事情は個々人により異なり、同じ被災状況は1つとしてないが、その全てが簡単な決心ではない。そんな思いにさせないこと、少しでも災害に人生が左右されることのない状況を作るのが、私の職業人としての理想である。
今年も能登に雪が降る。11月28日が今年の初冠雪となった。足が悪い腰が痛いと言っていたご老人は大丈夫だろうか。苦しい状況は続くが「下唐川はここからだから」そうおっしゃっていた住民の方の声が、耳に残った。
(執筆:山田貴禎)