食品ロスから考える。より良い社会実現のために最も適した感情。

大手コンビニエンスストアチェーンのファミリーマートが、東京都と神奈川県の一部店舗にて廃棄寸前の食品に「涙目」のキャラクターシールを貼り、従来の割引シールを使用した店舗との販売状況を比較するという実験を始めた。消費者モニター調査で、キャラクターやストレートなメッセージの表示に好意的な声が多く寄せられたことが経緯にある。この記事に寄せられたコメントを読んでみると、「感情に訴えかけるやり方はとても良い」や、「良い取り組みだ」など肯定的な意見が目立つ。私自身、食品ロス削減には大賛成。何を隠そう、我が家のキッチンにも「脱・食品ロス!!!」と書いた紙が貼ってあるくらいだ。

他人の行動を自分にとって望ましいものに変えるためには、相手の心を動かすことが重要だ。そういう意味で、心に直結した感情を利用したこの手法は、非常に効果的である。私自身、1人でも多くの方にADRAの活動に共感して頂き、支援の輪を広げるべく、心を動かす文章を書く練習をしているのだ。その重要性と難しさは、充分に認識している。しかしながら、涙を流して助けを求めるおにぎりには、違和感を抱いた。

問題は、「どの感情に訴えるか」である。涙を流したおにぎり達は、目にした人のどんな感情に訴えるのか。「助けなきゃ!」という正義感だろうか。そのような正義感を持ち合わせた人間であれば、消費期限の近い手前の商品から取っていくだろうから、わざわざおにぎりを泣かせる必要はない。私が思うに、涙のシールは見た人の「罪悪感」にアプローチするものだ。理屈はこうである。目の前に涙を流した人(おにぎり)がいて、自分には助ける術がある。助けを求められれば、応えたくなるのが善良な市民の心理だ。故に、おにぎりシールを目にした人は、「これを買うべきだ。」というある種の義務感を負ってしまう。そしてその瞬間から、おにぎり以外の選択肢は大げさに言えば悪となる。その日の気分がサンドイッチだったら尚辛い。涙目のおにぎりを横にBLTを手に取る自分に対して、罪悪感が生まれるのだ。おにぎりを買わないことへの罪悪感に負けておにぎりを買っても、気分じゃないのだから楽しめない。どちらをとっても最悪の結末だ。

勿論、全ての人がそうではない。おにぎりシールを見て消費期限が近いことを知り、ならば、と手に取って自身の善行に気分を良くする人もいるだろう。ただ、その場合は消費期限が近いことを笑顔のおにぎりが知らせれば良いだけで、やはり、泣いて訴える必要はないのだ。

私がここまでアンチ涙目おにぎりなのには理由がある。食品を擬人化することで、「可哀そう」「助けたい」という気持ちにさせて、購入を促すやり方が、少し前まで主流だった、人道支援への寄付広告を彷彿とさせるからだ。ガリガリに痩せ、焦点のあわない目で母親に抱かれる子ども、破壊された街にたたずむ老人。国際機関や支援団体は、世界の悲惨さを全面的に押し出し、「可哀そうなこの子たちを助けてください」と広告をうってきた。人々が置かれた困難は事実であるが、彼らが可哀そうなだけの人間かと言ったら決してそうではない。強く逞しく生きる人々の尊厳を奪い、間違った世界観を植え付ける広告に嫌悪していた。

2022年の冬、ロシアによるウクライナ侵攻が始まってすぐ、知人が3万円を渡してきた。連日の報道を見ながら、何も行動しない自分に対する罪悪感を払拭するためだ。寄付の理由は自身の開放であったため、彼からの支援は継続しない。何か別の事象が起これば、またそこで寄付をする。理由はどうあれ行動を起こして頂いたことには感謝しかない。が、場当たり的な支援だけでは、長期的な復興支援や根本的な解決を目指した開発支援にはつながりにくい。地球市民一人一人が、特に、先進国に暮らす私たちが、罪悪感からではなく、世界の明るい未来を信じてポジティブな行動を続けることができたら、世界の笑顔はもっと早く、もっとたくさんに増えるはずだ。今はわがままで理想論にしか聞こえないが、その日はくると信じたい。

あまりコンビニに行かない私ではあるが、次に行くときには涙で潤んだ瞳のおにぎりではなく、「あなたのお口に飛び込みたい!」と言わんばかりの、希望に目を輝かせたおにぎりを探してみよう。

(執筆:守屋 円花)

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