2024年9月下旬以降、レバノンでの戦火は激しさを増しています。OCHA 2024年10月17日レポートによると、死者は2400人以上、負傷者1万1千人以上、77万人以上が国内で避難民として生活しています。さらに、空路、海路で逃れることができる人はごく一部で、40万人以上が、内戦中のシリアへ陸路で避難しました。
日々のニュースを見て、ADRAで中東地域を担当している私は胸が痛くなります。今日の戦闘により故郷を逃れることになったレバノンの人々、シリア内戦によりレバノンに逃れた150万人程のシリア難民、48万人以上のパレスチナ難民のことが頭から離れません。
レバノンには公式のパレスチナ難民キャンプが12か所登録されています。非公式なパレスチナやシリア難民キャンプはさらに多くあります。ですが、各所が攻撃され、難民だった人が再び住む場所を失いました。彼らのことを、二重難民と言います。
パレスチナ難民キャンプに住んでいる人の中には、パレスチナからシリアに逃れ、2011年のシリア内戦によりレバノンに逃れ、そして今日の攻撃により三度住処を追われた、三重難民状態の人々も生じてしまいました。彼らは、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)によって、最も脆弱な人々とされています。
私は、まだレバノンが比較的安全だった頃に、彼らが住む同難民キャンプを訪れたことがあります。狭い地域に家が密集して増築され、電線は剥き出しで乱雑に放置され、衛生状況も決して良好ではありませんでした。しかし、そんなキャンプの中には学校があり、子ども達が遊びに夢中になれるサッカー場もあり、人々が営み生計を建てることができる環境がありました。人々は、その場所に生活基盤を構え、何気ない日常を送っていました。
彼らの人生は、そこにありました。しかし、その場所が今、攻撃の対象となっています。9月末以降、レバノン全土の学校は休校となっています。子どもが、子どもらしくいられる環境は、戦争により奪われてしまいました。友達と遊ぶ時間、行事や祭日をお祝いする時間を、家族でゆっくり過ごす時間は無くなりました。それどころか、逃れた人々が安心して暮らせる場所すら、今日のレバノンにはありません。
大変な状況に置かれているのは、レバノンにいる難民の方々だけではありません。レバノン市民も、実は、度重なるレバノンでの危機に襲われてきました。1975年から1990年に起きたレバノン内戦、2006年にイスラエル侵攻による紛争、2020年3月に経済破綻し、同年8月に首都ベイルート港にて大爆発事故、そして今日の戦争です。人々の穏やかな日々は消え去りました。
一人の人生において、そう何度も、住処を追われること、危機に襲われることなど、日本では考えられません。そんな起きてはならないことが、レバノンで毎日起きています。悲惨な日々が日常となってしまいました。
私は、世界の理不尽さが、この地に凝縮されているように感じます。だからこそ、私は寝ても覚めてもレバノンにいる人々のことを思い続け、活動に転換しています。
ADRAは、現地の教会、大学からのボランティアの人々と共に、避難生活を送っている人々をサポートしています。レバノン南部のティルス市の避難所では1,050名に朝食を、ナバティエの避難民570名に食料パッケージ、ベイルートと山岳レバノンの避難民631名に食料および必要な生活物資支援を受け取ることができる電子カードを提供しました。
毎日温かい食事の配給も実施しています。山岳レバノンのデクウェネ避難所にて320食、バールベックのアルサールの避難民に120食、地元のレストランと連携して、毎日食事を届けています。
少しでも多くの人々に支援を届け、日常を取り戻すことができるように、希望を失っている方々にADRAが支援を継続して届けることができるように、どうか皆さまのお力をお貸しください。
(中東地域担当:中西)