東日本大震災から14年の節目に

東日本大震災から14年が経ちました。

 私たちADRA Japanは、岩手、宮城、福島をはじめとする東日本各地で、地震が遺したものと今なお向き合い続けている人たちを想いながら、一人ひとりを大切にした支援で寄り添い続けて参ります。ご支援をお寄せくださる皆さまには、心より感謝申し上げます。

私は福島県飯舘村の出身です。飯舘村は放射能の影響を受けたため、村の人は避難しなければなりませんでした。この節目に、私の家族の14年間について、少し紹介させていただきます。

震災から約9年間、避難先の福島市に新しい家を建てるまで、みなし仮設住宅や借家を転々とした生活を送っていました。避難生活の中で、家族3人、祖父、祖母、母が続けて亡くなりました。震災から3、4年後に、まず祖父が亡くなります。その後、末っ子の妹が大学進学のため福島を離れ、祖母と母の2人暮らしの期間がありました。震災前から価値観が合わなかった2人は、お互いにより強いストレスを感じながら避難生活を送っていたように見えました。

震災から6年後、同じ年に母と祖母も亡くなりました。残された父、妹たち、そして私も、実家の片付けや生活に対する価値観の違いに直面し、ぶつかることがしばしばありました。

私の家族と同様に、震災による長期間の避難生活の中で、過剰なストレスや家族関係に悩み、東日本大震災から14年経った今なお、解決されないままの人たちがいるのではと思うことがあります。

2024年の能登半島地震発災後、ADRA Japanは、穴水町、七尾市、輪島市をはじめとする北陸地方各地で支援活動をさせていただいています。活動を通して私が出会った人の中には、様々なお困りごとや感情を抱えた人がいました。倒壊した家の修繕や、先の見通しがもてない生活に悩んでいる人、仮設住宅生活で家族との距離が近くなり、心労が絶えない人、ご主人が亡くなり仮設住宅に独りで暮らし、寂しい思いをしている人。私の家族が経験したことや苦悩と重なるものがありました。

東日本大震災と能登半島地震の被災地に共通するものは他にもあります。それは、厳しい現実を受け入れ、前向きに生きていくしかないという強い思いで懸命に暮らしている人たちがいるということです。また、時間の経過とともに、自らの生活再建から地域のために働こうとする人もいます。震災によってモノや人が失われた被災地では、このような地元の人たちの希望に寄り添い共感してくれる仲間や支援が必要だと感じています。

ADRA Japanは、能登半島の各被災地で、屋根のブルーシート張りや崩れた石垣やブロック塀の解体などを専門技術系のニーズ対応による災害ボランティアセンター運営支援、住民の方々にホッとした時間を提供する足湯や移動カフェによる支援、給水支援、お出かけ支援、在宅被災者支援などで、皆さまからのご寄付やご支援を能登の人たちに届けるお手伝いをさせていただいています。

山間部では震災で井戸水の水質が悪化した地域があり、飲料できる水質になるまでの期間、給水支援を継続してきた。
町の中心地から離れた地域では、バスの便の減少など様々な要因から、買い物などに困っている人がいる。
車両と運転手を用意し、お出かけの支援を行っている。
企業などからの助成金で、仮設住宅などに入居する人に家電製品を配付してきた。
家電配付が生活再建にどう役立ったかインタビューによるモニタリングをしている。
在宅被災者支援では、地元の人と一緒に一軒ずつ訪問し、罹災証明に応じた各種支援制度の申請状況確認、
家屋の状態、健康状態、生活上の課題などを聞き取り、適切な機関やサービスにつなげる取り組みをしている。

震災後、人の悩みや困難は形を変えていきます。それに合わせて、必要な支援も変わってきます。今後もADRA Japanは、被災地の皆さまが希望をつないでいけるようなお手伝いに精一杯取り組んで参ります。

引き続き、ご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

(執筆:国内事業課 大澤 明浩)

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