変化するウクライナ支援~隣国で続く居場所作り~

いつも温かい応援をありがとうございます。ウクライナ人道支援のため、スロバキアに出張したスタッフからのレポートをぜひお読みください。

 スロバキアの首都ブラチスラバから車で北北東へ2時間ほどの場所にトレンチン市がある。スロバキアに到着してから3日目の5月15日の午後、パートナーであるADRA Slovakia(スロバキア支部)事務局長、自らが運転する車に乗り、トレンチン市にある活動地を訪問した。

 スロバキア支部は、2022年3月にウクライナ危機が始まって以来、戦火に追われて着の身着のままで逃げてきたウクライナの人々を支えてきた。ADRA Japanは、2023年3月より、ジャパン・プラットフォームの助成金を基に、隣国ウクライナからの避難民支援活動を同支部と共に当地で開始した。

 私がスロバキアに駐在した2022年12月~2024年1月の間、トレンチン市では大きな倉庫が活動の拠点となっていた。ウクライナに送る食料・衛生用品の人道支援物資を危機開始直後から累計72,280箱送り出した場所である。ウクライナへの支援物資を送るパッキング活動は、自らも避難してきたウクライナ人のボランティアによって支えられた。

 そこでは、「祖国のために何か自分にもできることをしたい!」という気持ちを共有する人々のコミュニティが築かれていった。活動の中心になったのが、スロバキア支部のスタッフで調整役のアドリアナと、その夫であり、活動を調達の面から支えたルドである。

 二人は、倉庫での活動に訪れる人々を温かく迎え入れ、笑顔を忘れてしまったウクライナ人たちの心を癒してきた。しかし、戦争が長期化する中、日本でもスロバキアでも、避難民支援の予算は多くの場所で削られていた。支援活動自体も、緊急対応から、長期化するスロバキアでの生活をどのように築き上げていくのか、という支援に変わってきた。 

 トレンチン市でのウクライナ避難民を取り巻く支援活動も例外ではない。危機直後から起点となったトレンチン市の倉庫は2024年1月に閉鎖することが決まった。祖国のために行動でき、故郷から遠く離れつつも「家族」と思える人々とのコミュニティであった場所の閉鎖に、ウクライナ避難民の方々からは不安の声が上がった。

 私自身、プロジェクト・マネージャーとして、「支援物資のパッキング」活動を通して繋がり、築かれてきた場所が、今後どのように彼らの心の拠り所となり、生活を支えていけるのか、一種の不安と疑念があった。

 現在、倉庫は閉鎖されたものの、スロバキア支部が日本の寄付金をもとに、同市内の新たな拠点でウクライナ避難民のためのヘルプセンターを運営している。2024年5月、同市では約2,000人のウクライナ避難民の方々が生活している。

 長袖では少し汗ばむほどの気持ちの良い初夏の快晴の下、今年の2月に場所を移転し、新たにオープンしたこのヘルプセンターに向かった。

 トレンチン市に到着したのは16時過ぎ。仕事終わりのウクライナ避難民の方たちがスロバキア語講座に来ると聞いていた。到着してすぐに、アドリアナが両手を広げて迎え入れてくれた。

 スロバキア語が話せない私と英語が話せない彼女の間では通訳をしてくれるスタッフがいないと意思疎通ができない。しかし、彼女の力強いハグと両頬への挨拶のキスで、1年以上プロジェクト・マネージャーとして仕事をしていたこの国に帰ってきた実感が湧いた。

 夏に向けて日が長くなりつつある5月。16時でもまだまだ明るく、センターの窓からは暖かな陽が差し込み、子ども用の活動スペースに置かれたカラフルな家具とおもちゃにぬくもりを感じた。

トレンチン市の新しいヘルプセンター

 センターの大人スロバキア語講座は、地元の高校教師のボランティアであるシモナが中級と上級を、ウクライナ避難民ボランティアのナタリアが初級クラスを担当している。ナタリアはハルキウ州出身で、危機発生直後、娘と一緒にポーランドを経由して、このトレンチン市に避難していた。

 この日の授業が始まる前、ルド、アドリアナ、ナタリアが通訳を介して、私に質問をする隙を与えない勢いで、センター活動の話をしていた。アドリアナは、次のように語った。

 「ここでの活動には、前の倉庫にはいなかった人たちが新しく来始めているの。トレンチン市では工場の仕事など、スロバキア語をほとんど使わない仕事をしているウクライナ人も多い。だけど、2年が経った今、人々の間にもう祖国に帰るのを諦めないといけないかもしれない…という想いがどんどん強くなっている。仕事ではスロバキア語を使う必要がなくても、ここで人生を続けていくために、今からでもスロバキア語を始めようという人が増えているのよ」。

話をするスタッフたち(左奥から右に向かって、ルド、ナタリア、アドリアナ、事務局長、通訳スタッフ)

 しばらくすると、ナタリアに「睦美、まだ私に質問はあるかしら?どうしてもスロバキア語講座に行きたいの。」と言われた。その後彼女が抜けていった講座を見に行くと、自信に満ち溢れた様子で、ウクライナ語を用いてスロバキア語を教えるナタリアの姿があった。

 実は、この日の前日である5月14日も、彼女の故郷ハルキウが、またもロシア軍から激しい攻撃を受けていた。だが、そんなことは感じさせない笑顔とエネルギーで、彼女はスロバキア語を学び始めた生徒たちを指しながら、授業を進めていた。

 トレンチン市からの帰り道、事務局長がナタリアの話をしてくれた。

 「今年の3月に別の事業のモニタリングでウクライナに行った時、ナタリアも一緒に来たんだ、本人の希望でね。車でチェルニヒウに向かっていたんだけどね。道中、彼女の目から涙が溢れ出してね。止まらなくなってしまったんだ。彼女は『ごめんなさい…だけど涙が止まらないの』と言っていた。昨日もハルキウで激しい攻撃があったばかりだろう…」

とため息をついた。

スロバキア語を教えるナタリア

 この日、上級・中級のスロバキア語講座も見学をした。私も今回の出張で初めて目にするシモナが、教材となるワークシートを配って、スロバキア語でスロバキア語の授業を行っていた。

 言語交換程度の活動をイメージしていた私は、予想以上に本格的に教える姿に驚き、おもわずアドリアナに、給与を払っているのかと聞いた。

 アドリアナは、「彼女は高校の先生だからね。でも私たちとは1時間の授業で15EURという価格で合意をしてくれたの。こんな条件で授業をやってくれる先生を見つけるのに本当に苦労したわ。でも私たちが授業料を払うのではなく、生徒たちが自ら払っているのよ。大体1クラス5人の生徒がいるから、1人当たり3EURを集めているの。」

と説明してくれた。

 スロバキア国内のウクライナ避難民の方々を取り巻く支援活動の形が変わってきたのだと感じた。

 ウクライナの戦争が長期化しているとはいえ、支援を与え続けることはできない。どこかで方向転換していかなければいけない。それがいかなる方向にどういった形で変わっていくのかまだ確信がなかった私にとって、今回の訪問で見たトレンチン市の活動の形は、小さな希望の光を与えてくれた。

中級スロバキア語講座の様子(右奥に座る女性がシモナ先生)
 

 このトレンチンのヘルプセンターでは、子どもたちも変化している。15歳のソニャもその一人だ。

 彼女は、倉庫を拠点に行われていた活動から参加していた。元々は、母親がウクライナに送る人道支援物資のパッキング作業にボランティアとして加わった。その母親が、ソニャも連れてきたのだ。アドリアナは、ソニャと初めて会った時のことをよく覚えていた。

 「倉庫に初めてソニャが来た時、私は『Ahoj!(アホイ)(スロバキア語で「やあ!」の意味)』と挨拶をしたの。彼女は何も返さなかった。ただ下を向いて自分の足元を見つめているだけだった。彼女のボディランゲージのすべてが『ここでの活動、来ている人たちになんて何の興味もない』ということを物語っていたわ。(中略)ここに来ている10代の子どもたちはみんな、センターで出会ってお互いのことを知るようになったの。そこで友達の輪が作られていった。ソニャもそんな中で変わっていった。倉庫で活動がある日に、朝7時には母親の枕元にやってきて『ママ!早く倉庫に行かなきゃ!』と言うようになるまで変わっていったの」

 祖国から離れ、言葉が通じない国で生活をすることを余儀なくされたウクライナの方々は、このトレンチン市のセンターで出会う人々に温かく迎え入れられて救われてきた。

 これまでに同センターでは、2つの助成金申請を行っている。申請を得意としてこなかったトレンチン市のスタッフたちが、どうにかスロバキアで確保できる方法でウクライナ避難民の居場所を守り、彼らを支え続けている。

 この日センターの入口をまたいだ時には疑念が晴れていなかった私は、曇り空が晴れたようなすっきりとした気持ちでトレンチン市から帰路に就いた。

文責:高橋睦美

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