エチオピア見聞録。「エチオピア人」の共存は難しい?

アディスアベバ博物館がある高台から

みなさん。こんにちは。
エチオピア駐在員の辻本です。

最近エチオピアでは選挙があり、治安悪化が心配されたため、選挙の熱が落ち着くまで、私は首都のアディスアベバに
いました。

幸い大きな事件は起こらず良かったです。

今回はエチオピアの歴史や多様性について私が見聞きしたことを少し綴りたく思います。

首都のアディスアベバでは大きな博物館がたくさんあります。

中でもアディスアベバ博物館と民族学博物館で展示されているエチオピアの戦争の歴史が興味深いです。

民族学博物館。アディスアベバ大学内にある。

エチオピアは2回イタリアと戦争をしています。

1回目は19世紀後半のことです。

これは第一次エチオピア戦争と呼ばれます。

当時、他のヨーロッパ諸国と同じように植民地主義政策をとっていたイタリアはエチオピアを植民地にするために侵攻します。

しかし、エチオピア皇帝率いる大軍の抵抗により失敗に終わります。

エチオピア勝利の決定打となったのがアドワの戦いと呼ばれます。

博物館にはその当時のエチオピア兵士の服装、武器、戦闘の様子を描いた絵画などが飾られています。

アドワの戦いの勝利はエチオピア人の誇りであることが感じられました。

アディスアベバ博物館に展示されているアドワの戦いの絵画
民族学博物館に展示されているアドワの戦いの絵画

両方の絵画には中央上に聖人ジョージが描かれており、神の加護があったことが示唆されています。

右側のイタリア兵はみんな同じ顔ですが、左側のエチオピア兵の顔は少しずつ違っているのが興味深いです。

イタリアとの二回目の戦争は1935年のことです。

イタリアはムッソリーニ独裁政権下でした。

この時はイタリアの軍事技術が勝り、皇帝はイギリスに亡命しました。

イタリアは全土占領を宣言しますが、皆さんもご存じの通りイタリアは第二次世界大戦で負けるので、エチオピア占領は短くして終わります。

こういったことから、エチオピアはアフリカで唯一植民地化されなかった国とも呼ばれています。

エチオピアにはこのように国家としての歴史があります。

しかし、エチオピアには別の側面もあります。

それは、エチオピアは様々な人々でできた国家だということです。

エチオピアには80を超える民族が存在しています。

宗教も、キリスト教(エチオピア正教、カトリック、プロテスタントなど)、イスラム教、ユダヤ教、土着信仰などがあります。

言語も複数存在し、ADRAのスタッフでも4、5言語話せる人がいます。

こういった多様性は、残念ながら根深い民族問題に発展することがあります。

読者の皆さんもニュースでご覧になったことがあるかもしれませんが、ティグレイ紛争もその一つです。

エチオピアは、周辺国から約78万人(2021年6月30日UNHCR)の難民を受け入れている一方、逆に難民を出す側になることがあるのも事実です。

ADRAの事業地であるガンベラ州でも民族対立構造はあります。

今は比較的治安が安定している方ですが、過去には大きな事件が起きたこともありました。

(※ADRAは常に治安状況に注意を払いながら事業を進めています。)

アディスアベバ博物館がある高台から

現地スタッフは

「エチオピアの子どもたちはエチオピア人としてではなく、それぞれの民族アイデンティティを与えられ育っていく。
対立は終わらない」

と、残念そうに話していました。

また、どこの民族出身なのかは選挙でも重要なポイントになるようです。

まだまだ表面的ではありますが、エチオピア人について、考えさせられる機会となり、事業の管理や駐在生活を通じ、エチオピアの人々についてもっともっと知りたいと思うようになりました。

このような国内事情があるエチオピアでADRAは南スーダン難民支援の事業を行っており、たくさんのエチオピアの人々の協力によって成り立っています。

ADRAはエチオピア国内の民族対立に配慮しつつ、クレ難民キャンプでの南スーダン難民支援活動を継続していきます。

今後とも皆さまからの温かいご支援をよろしくお願いします。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

*本事業は皆さまからのご支援とジャパン・プラットフォームの助成を受けて実施しています。

(エチオピア事業 駐在員 辻本峻平)

アディスアベバ博物館がある高台から

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