東日本大震災から間もなく10年~現地の方々の今の想いとは《前編》

2011年3月11日14:46に発生した東日本大震災から間もなく10年です。

ADRA Japanは、発災直後から情報収集を行うとともに、東京事務所では帰宅困難者のための一時避難場所を開設、翌日に福島県と宮城県へスタッフを派遣しました。

そこから現地とのお付き合いが始まりました。

(当時の活動についてはコチラ)

被災をされた住民の方々にとって、この「間もなく10年」という日は通過点に過ぎないかもしれません。

10年という歳月に関わらず、この時期になると毎年震災のことを思い出し辛くなる、という声も聞かれます。

ADRA Japanでは、住民の方々が“今何を想われているのか”をご紹介することで、皆さんと一緒に改めて震災について考え、知り、これから一人ひとりに何ができるのかを考えるきっかけとしたいと思いました。

私たちが当時現地で一緒に活動した皆さまからいただいた言葉を、3回に分けてご紹介します。

今回は、福島県の方々からです。

【浪江高校の元教諭、朝田由美子様より】

東日本大震災がアドラとの接点となりました。

あれから十年です。

余震がまたやってきて、まだ、過去のことにするのには十分な時間でなかったのだと感じています。

私は当時、双葉郡の県立高校に勤務していました。

突然のことで何も持たずに各地に避難した生徒達も、学校の再開に伴いアドラからの制服支援を受け、その支援を契機にたくさんの後押しをもらって、少しずつ、また、ほんとうの日常とはひとあじ違った日常を取り戻していきました。

価値観が大きく変化するなかで、生徒達の笑顔を見ながら、私自身も精神のリハビリをするように目の前のことに取り組み、仕事をしていました。

県内のどの学校も放射線量という難題で苦しい時期でした。

双葉郡八町村の、北から浪江高校・浪江高津島校・双葉高校・双葉翔陽高校・富岡高校もサテライト校での活動となり、この五つの高校を引き継ぐ形で、ふたば未来学園高等学校が双葉郡広野町に開校しました。

私が担任をした浪江高校の最後の卒業生と一緒に、平成二十九年に本宮市で休校式を行い、アドラをはじめお世話になった皆様とお別れしたこと、今も忘れることはできません。

皆様にいただいた御厚情を、いつか恩返ししたいと思っています。

元気でいます、まずはそこから、恩返しです。

浪江高校の生徒の皆さんとユニクロ社員の方々
人材育成プログラムの一つで、株式会社ユニクロ様の協力で仮設住宅で移動販売を企画・実施した時の様子。浪江高校の生徒の皆さんとユニクロ社員の方々

【富岡高校サテライト校卒業生の佐藤優樹様より】

震災と原発事故から10年-今思うこと-

“3653日”皆さんはこの数字を見て、何を思い浮かべるだろか。

これは、2011年3月11日の「東日本大震災」と「原発事故」から、2021年3月11日までの日数である。

 「あぁ、そういえば」「もう、あれから10年か……」「そんなことがあったんだ、知らなかった」など、住む地域、年代によって捉え方はそれぞれだろう。

当事者の私は、「もう、あれから10年か……」である。

言葉ではそう表現するが、体感的には未だに“昨日の出来事”である。

時が経てば記憶は徐々に薄れるものだが、鮮明過ぎるほど覚えている。

もちろん、事細かに詳細を話すこともできる。

しかし今は、

「あの時、震災も原発事故も起こらず、このまま故郷で生活していたら、どんな人生だったかな」

「もしあの時、避難しても2,3日で戻れていたとしたら、今頃何事も無かったように生活してただろうな」

「もしあの時、友だちとしばらく会えなくなると分かっていたら何と声をかけたかな」

というように、“起きてしまった過去よりも想像でしかない未来” を考えることが多くなった。

これは決して現実を否定しているのでは無い。

この10年かけてこれらの出来事を”運命”として受入れる覚悟ができたからこそである。

皆さんはこの10年、どのように過ごしてきましたか。

人材育成プログラムの一つで、福島県立富岡高等学校いわき明星大学サテライト校と米カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・環太平洋研究大学院の学生とのスカイプを通じた交流の様子

明日は宮城県からの声をお届けします。

(執筆:国内事業課 三原千佳)

浪江高校の生徒の皆さんとユニクロ社員の方々

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