東日本大震災

東日本大震災から12年。これからも寄り添った活動を

12年目を迎えて

今日、3月11日は東日本大震災から12年です。とても長い年月のようにも思いますが、支援活動を続けてくる中で触れてきた、住民の方々のたくさんの悲しみや怒り、やるせなさや不安など、一言では書ききれないお気持ちは風化することがありません。同時に、住民の方々と一緒に時間を過ごしてくる中で、人とつながる喜びや、悲しみから立ち上がる強さ、未来への希望も住民の方々から感じてきた12年でした。

福島県 飯舘村では

現在、福島県飯舘村でゲストハウスを営んでいる元高校教員の大澤和巳さんに、飯舘村の今の様子についてお話しを伺いました。 原発事故により避難を余儀なくされた福島県の子どもたちへの制服支援や学校への教育備品支援、復興を担う子どもたちへの人材育成支援など、子どもたちと関わる活動で大変お世話になった先生です。

スタッフの三原より

新しい飯舘村を作ろうと精力的に活動なさっている大澤さんのお話には、これからの展開にワクワクする気持ちが湧き、またぜひ戻ってこようと心に誓いました。

また、飯舘村のほか、大熊町、双葉町、浪江町、南相馬市、相馬市を回り、沿岸部や新しく整備されている地区、「東日本大震災・原子力災害伝承館」を訪れる中で、復興に向けての歩みは進められていると感じました。

しかし、それと同時に、今もまだ人が住めない地区を見ながら、言いようのないさみしさと悔しさがこみ上げてきました。風化させたくありません。今もこれからも、共にこの日本に暮らす人として、目をそらさず、手を取り合っていきたいと思います。

宮城県 山元町では

昨年2022年の3月は、16日に福島県沖を震源とする大きな地震が起きました。福島県にほど近い山元町では、道路のひび割れや隆起、断水、屋根瓦の落下、住宅屋内の歪み、家具の転倒などの被害がありました。発生した日が東日本大震災と近い日にちであったことから、被災した方や直接的な被害を受けなかった住民の方も不安な気持ちを抱えておられました。

そこで住民の方にリラックスしてもらう場を提供するために、春から夏にかけて町内で計14回の足湯を開催しました。

参加者の中には、仮設住宅から災害公営住宅へ移って新しいコミュニティになじんでいく過程の方や、震災前と比べて住む人がかなり少なくなった沿岸部で暮らす方もいました。

コロナ禍も重なり、住民同士で集まる機会も少なくなっていたので、足湯の開催は多くの方々に喜ばれました。

足湯に来られた方からはさまざまな声がありましたので、ご紹介します。

「このエリアに100年以上、代々住んでいる。家は100才超えた。
私で5代目、孫までいるから、全7世代。この前(3月)の地震で家が全壊した。
でも、今日保険おりた。もう大変だった。」(70代女性)

「みんなと集まってカラオケしたり、おしゃべりやグランドゴルフしたりするのが楽しい。
でもコロナで出来なくてつらかった。ようやく始められてよかった。」(80代男性)

「家がメチャクチャでタイルもはがれてお風呂も入れない。
足湯が来るのを楽しみにしていた。ペースメーカーが入っている。
大腿骨が折れて長く(10か月)入院していた。動けなくて大変だった。地震の時にタンスが倒れてきて肩を打った。ヒザも震災の時にもぎとれそうになった。普段は家事をしながら、散歩したり、ボケ防止のジグザグ漢字をやっている。
足湯が来るのをカレンダー、時計を見ながら指折り待ってました。」(85才女性)

ご紹介した声はほんの一部ですが、こちらを読んでいただくだけでも、同じ地震を経験しても、それぞれが違う状況に置かれ、想いも違うことがお分かりいただけると思います。

また、町内の花釜区に住民の方々が集まる場として2013年12月にトレーラーハウスを設置しています。この数年の地震でそのトレーラーハウスにも被害があり、修繕にも取り組みました。

山元町では東日本大震災で沿岸部の全ての地区が津波による大きな被害を受け、花釜区では住民が集う集会所が流失しました。

このトレーラーハウスは「みんなで集まれる場所がほしい」という住民の声を受け、設置したものです。住民の方々からは「オレンジハウス」の愛称で親しまれ、地域の女性たちによる手芸活動や地区の班長会議など幅広い活動に使われる場所となりました。今でも多くの地域住民が集う場となっています。

このトレーラーハウスは設置からすでに9年経ち、建物の経年劣化も見られるようになっていましたが、これまでは住民の方々が自力で修理をしてきました。ですが、2021年2月に発生した福島県沖を震源とする地震の影響により、トレーラーハウスの外部に設置していた木製スロープやデッキの土台がずれるなどの被害があり、昨年3月の福島県沖地震でも屋根内部のベニヤ板がずれるなどの被害がありました。

修繕が必要になった部分については、今も東日本大震災で被災された方を気にかけてくださる方々の温かいご支援のもと、
修繕を行うことができました。

利用者の方の声をご紹介します。

「オレンジハウスを利用して9年になります。1番心配していた屋根を直していただいて安心してお婆ちゃんたちに利用してもらうことができます。少しでも長く使えるように大切にしたいと思います。まだまだオレンジハウスを必要としている人たちがいます。その時々に合わせて利用の形を変えて長い活動にしていきたいと思います。ありがとうございました。心より感謝いたします。」

「お陰様で浜特有の強風や雨でも安心して集まれております。被災地に住む者として、今でもお気持ちを寄せてくださり、ありがとうございます。」

このような地域に寄り添った活動を続けることができますのも、ご支援下さっている皆さまの温かいお気持ちのおかげです。

心より感謝いたします。

スタッフの三原より

震災後に長期間駐在をしていた山元町は、私にとって第2の故郷です。ADRA Japanとして、引き続き地域や住民の方々に寄り添った活動を続けていくのはもちろんのこと、プライベートでも、また遊びに行きたいと思います。

いちごにりんごに北寄貝、特産品を使った美味しい加工食品もたくさん販売されています!

震災遺構の中浜小学校を見学後、町内をぐるりと一周するのもオススメです。皆さんも機会がありましたら、ぜひ一度山元町へ足を運んでみてくださいね。

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3月11日からの取り組み

2011年3月11日、14時46分に発生した東日本大震災は、ご存知のようにマグニチュード9.0を観測しました。日本においては史上最大規模、アメリカ地質調査所(USGS)によれば、1900年以降、世界で4番目に大きな地震で、死者は1万5900人にも上っています。

あの日、東京も交通が麻痺し、9万人以上が帰宅困難者となりました。それでも多くの人は、何とか自力で帰宅しようと、ADRA Japan事務所の近くで自転車やスニーカーを購入されていました。その姿を目にした我々は、同じ建物内にある東京中央教会と連携し、17時過ぎに急遽、渋谷区神宮前1丁目の事務所の上の階に一時休憩センターを開設しました。5kgのお米を炊いて100個強のおにぎりを拵え、水を用意し、トイレも開放しました。

そして、テレビやインターネットを目にできる空間を築きました。携帯電話を充電して頂き、弊団体が用意したホワイトボードに、刻一刻と変化する電車の運行状況を記しました。このスペースで1~2時間ほど休み、徒歩で自宅に向かおうと、立ち上がる人々の姿を記憶しています。

そして、一時休憩センターがひと段落した12日の13時30分、我々のチームはワンボックスカーで被災地を目指しました。当初、現地では福島県庁と政府関係者以外、何の情報も得られない状況にありましたが、過去の実績を認められ、民間団体として初めて政府の現地対策本部と連携しての支援活動が許されました。ADRA Japanスタッフの1名は陸上自衛隊のヘリコプターに乗り込み、避難所の調査を重ねました。

また、3月16日の午前8時頃には、弊団体の別のスタッフが仙台市の高齢者施設から事務所にかかってきた電話を受けています。声の様子から、この女性が不安を感じていらっしゃることが伝わってきました。彼女は「行政に支援を頼んだのですが、『小さいところまでは手が回らない』と言われました。助けてください」と切実な声で語りました。

高齢者40名と職員50名、近隣の方々およそ100名が避難している施設があり、電気と水が止まり、ガソリンもなく、周囲には瓦礫が散乱していることを聞かされました。ADRA Japanは即、支援物資を積んだトラックを走らせ、翌日の15時前に現地に到着。被災地にとって、いや、人間が生きる上で水がいかに貴重なものであるかを再確認しました。そこで、同地区5カ所の高齢者福祉施設に水はもちろん、ガソリン、灯油、プロパンガス、食料品、大人用オムツを、現地から「もう大丈夫です」という声が上がるまでお届けしました。

避難所の現状を見続けた結果、宮城県亘理郡山元町では行政のサポートが足りていない事実が浮き彫りとなりました。そこでADRA Japanは、町災害対策本部や社会福祉協議会の諸氏が復興作業に集中できるように、「アドラ食堂」を設け、毎日3食の炊き出し支援を行いました。2011年4月6日から7月末日までの間、主食・おかず2品・汁物を合計で1万2500食提供し、役場職員の皆様をサポートしたのです。

8月からの2年半は、被災者の方々が足をお湯に浸けながら、短い時間でもリラックスし、ホッと一息つける機会をもうけ、1780余名の方と交流しております。

最近の活動

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