バングラデシュ出張記 #6「生きる」ということ

バングラデシュ北西部、インドとの国境に近いディナジプール市ビラル管区での調査5日目。モンスーンが終わり、冬がこれから始まろうとしている10月後半。もちろん日本の秋冬のような気候ではなく、気温は日中30度を超え、湿度のおかげで体感温度も上がる。天井にファンが付いている建物の中なら暑さは多少和らぐが、村での屋外インタビューでは、汗が額から噴き出してくる。

ビラル県の水衛生アセスメントでは、主に学校と地域の医療従事者へのインタビューと村人へのグループディスカッションを実施した。しかし、初めてこの地を訪問する私には、これらの調査手法だけでは村人の暮らしが全く見えてこなかった。そこで、急遽、丸1日かけて村人の家をランダムに訪問し、インフォーマルインタビューを実施させてもらえるよう調整をお願いした。

朝から日が暮れるまで異なる家を周り、計8人にインタビューをさせてもらった。インフォーマルインタビューというだけあって、事前に質問は用意しない。村人と対面して挨拶をして会話が始まってから、その流れを見ながら頭の中で質問を構成していく。モニタリング評価担当のスタッフには、彼が分かる言葉で「インフォーマルインタビュー」と伝えていたが、私の中では実際のところ、村人の暮らしを見つめるための「対話」であった。

ビラル管区内の田舎道。未舗装の道の横に田んぼが広がる.

朝から数件のお宅を回って話を聞いた後、12時頃、村を案内してくれていたボランティアが、舗装されていない田舎道を歩く中で「ここでも話を聞いてみますか?」と訊ねてきた。この日、私の他には、村を知り案内をしてくれるボランティアとダッカから一緒に来た通訳ボランティアの学生の3人で構成するチームだったが、外国人が村を歩き回っていることはすぐに知れ渡り、近所の村人も一緒になって歩きの移動は常に大所帯だった。どこの誰なのかもわからないまま、「ご本人がいいならお話を聞きたいです」と答え、インタビューを行った。

インフォーマルインタビューで移動した村の道。トタン屋根の家が並ぶ。

通してもらった小さな敷地で出迎えてくれたのは、白髪がまじったヒンドゥー教徒のお母さんだった。門をくぐると、三面に土壁・トタン屋根で作られた部屋に囲まれた中庭のようなスペースが現れる。お母さんは、右足を引きずりながら歩き、右腕もほとんど動かないようだった。私と通訳ボランティアのために椅子を出してくれ、自身はレンガ2つ分ほどのサイズの小さな木のスツールのようなものに腰かけた。周りには女性を中心に親戚やご近所さん10人以上が私たちを囲んだ。ベンチに座って我々を囲むものもいれば、目をキラキラさせながら我々の傍に立って様子を窺うものもいた。小さな子どもも混じっており、なんだか慌ただしい。

私はまず自己紹介をした。覚えたてのベンガル語で日本から来た事を伝えた。その後は英語でADRAが何者なのか?私は今何のためにインタビューをお願いしているのか?を話した。「事業案件形成のためのアセスメント」という言葉は使わなかった。これまで数日間インタビューをしてきた中で、通訳からこれらを聞いた村人に「うちにも来てトイレを作ってくれ」と呼び止められることが増えたからだ。

2022年の国勢調査では、ビラル管区で「トイレへのアクセスがない・野外排泄をしている」と回答したのは人口の12.41%だったが、今回私たちが実施した世帯調査では、450世帯の約35%がトイレが無いと回答している。

挨拶が終わり、質問をさせてもらってもいいですか?と聞くとお母さんは「いいわよ」と笑顔で答えてくれた。最初に私は、お母さんが誰と住んでいるのか?を聞いた。彼女は18歳の息子と2人で暮らしており、離れて暮らす24歳の娘がいると答えた。彼女は未亡人だった。この時点で、私の心の中に「この人はどれだけ大変な人生を送ってきたのだろうか…」という疑問がよぎった。

ヒンドゥー教徒はこの国では人口の約8%とマイノリティーだ。未だにヒンドゥー教徒への差別行為や過激な嫌がらせは国内外でニュースになっている。その上、障害があり、未亡人でもあるのだ。同じ敷地内に彼女の兄弟家族5人が住んでいると聞いて、少しほっとした自分がいた。次に私はこう切り出した。

 「あなたがどのような生活をしているか知るために、あなたが昨日1日何をしたかお聞きしたいんですが…何時頃に起きたか覚えていますか?」

予想外の質問だったのか、通訳さんから質問を聞き、お母さんは笑った。周りにいた村人たちも笑う。これまでにこの反応はこの村にきて何度も経験した。恐らく、NGO大国のバングラデシュのこの村でも、ドナー国からはるばるやってきた外国人にこんな質問をされたことは無かったようだ。

 「5時くらい」

と答えるお母さん。私は続けて「起きて最初に何をされましたか?」と聞いた。お母さんは「掃除をしたわ」と答える。この国の女性は朝起きて一番に掃除をするのか?…と感心した。他の家でも同じ回答をした女性が数人いたからだ。掃除の後にはトイレに行ったと教えてくれた彼女に私は聞いた。

「トイレはどこにありますか?」

お母さんは、敷地内のトイレは使えないから野外の見えないところで用を済ませたと答えてくれた。その後も食事の用意や食器洗いの話をする中で、敷地内に井戸がありそこで水を確保していることなどを教えてもらった。私とお母さんの対話はそのまま続いた。


「昼食を食べた後は何をしたのですか?」

「他の村に出かけたわ」

「他の村で何をしたのですか?」

「お米とか野菜を恵んでもらうように家を回っていたのよ」

ここで通訳をしていた学生が「彼女は体が動かないから農作業ができないから…」と付け足した。

「昨日村を回って何かもらえたものはありましたか?」

「お米を2~3kgもらったわね」

「以前にも同じお家からもらったことがありますか?」

「分からないわ。毎回違うところに行くから覚えていないわ…」

この時、私は頭の中で「ああ、このお母さんは施しを受けて生活を立てているのか…」と理解した。今回出張に来る前にバングラデシュ地域研究誌を読んでいた私は、当地でいわゆる「物乞い」と呼ばれる方々、自分が住む村ではなく、近隣の村を回るということが書かれていたことを思い出した。

今回の訪問で、ダッカから来た学生通訳は特に苦労した。ダッカで使われるベンガル語とこの村で使われるベンガル語はイントネーションや語彙が大きく異なるのだ。通訳に詰まるたびに周りにいる村人とお母さん、通訳さんが話をして彼女が理解したところで英訳がなされた。周囲の村人たちも私とお母さんの対話を楽しんでいるのか、和気藹々とした雰囲気で対話が進んだ。

このお母さんの情報を紙面で見れば、心を痛める人々が世界中にたくさんいるだろう。しかし、対話中、彼女自身や村人たちの間に悲壮感は微塵もなかった。まるで、1つの生き方として受け入れられていて、それ自体がネガティブなこととはとらえられていないような印象を受けた。30分ほどの対話を終えて、お礼を伝え去る際も、「支援をしてほしい」と言ってくる人はお母さん自身も含め誰もいなかった。

日本など先進国のように社会福祉制度によるセーフティーネットが未整備のバングラデシュでは、こうした村人たち自身によるインフォーマルな助けの手が1人とその家族の生活を支えていた。このお母さんと村人たちには、「生きる」ということの幅広い価値観を教えてもらった。私たち外部からくるものにとって、こうした対話を少しずつ積み重ねていくことが、彼らを理解するための近道だ。今回の訪問は、そんな開発支援に関わる者としての使命感を再認識させてもらった時間となった。

(執筆:高橋睦美)

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