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能登半島の中心地、七尾。
東京と比べると質素な都会ではあるが、ここは確かに奥能登と中能登を合わせても、随一の都市なのだ。
「能登はやさしや、土までも」元禄9年に西山郷史が生んだ言葉である。それから現代まで、この地域に住む人々の気質を表す言葉として用いられ続けている。
そのような人々に対する仕打ちとして、あまりにもむごい出来事であった。元日の地震は、彼らから日常を奪った。初めての出来事に戸惑う人々。慣れない避難所での生活。
時には、住民同士で言い合いになることもあった。
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七尾市の中心地から車で1時間。奥能登までずっと続くアスファルトには亀裂が入り、どこまでも長く続く自動車の列。通常であれば、20分もかからない。その避難所では、多い時で20人前後が暮らしていた。
日中は仕事をして、夜に戻る。被災直後ではあるが、そこには彼らの日常が残っていた。少し形は変わってしまったが、新しい生活を受け入れなければ元には戻れない。誰も一言として言葉を発さないが、表情から覚悟が見受けられた。
当地では、各々が役割を与えられていた。
60代くらいであろうか。白髪混じりの日に焼けた男性は、外から届いた物資を運ぶ。今日は、レトルト食品とカイロが届いた。同じ係の住民がバケツリレーで、重たいダンボールを倉庫へ運ぶ。それを見て、一喜一憂する住民。食が偏っていたのであろう。野菜が沢山入った食品に思わず笑みがこぼれる。これから避難している方の食事を用意するのだと言う。
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一歩ずつ丁寧に歩く女性。彼女は腰が曲がっているが、箒をしっかりと握りしめ、冷たい床の上を掃いている。時折、休憩を挟みながらも、着実に綺麗になっていく玄関。
ここは、発災から1週間しか経っていない。しかし、各々に役割があり、悲しみや苦しみに明け暮れながらも、力強く生きている。誰もそんなことを語りはしないが、元の生活に戻るために今を受け入れている。
そんな覚悟を行動からも感じた。
(執筆:三牧晋之介)